「腑に落ちる」とはうまくいったもので、ものごとが内臓の奥からわかることがあります。たとえば、一年中真夏のマレーシアの映画館。クーラーのせいで寒いとは聞いていましたが、実際に行ってみるとほんとうに寒い。半そで、サンダルのところに、館内はきつい冷気の嵐。「そこまでではないだろう」とタカをくくっていた僕も、芯まで冷えてようやく、みなの話が腑に落ちたのでした。
もちろん、体感するだけが「わかる」ことではありません。最近、放浪の画家山下清のエッセイを読み返したのですが、その中に「しあわせになれるかどうか、さきのことはわからないな。ぼくはしあわせでもふしあわせでもなくて、いつもふつうだな」ということばがありました。かつては何気なく読み飛ばしていた一節ですが、今になって身体に染みてきたような気がします。
「腑に落ちる」とき、小さいけれど、確実な幸せがあります。われわれはこんなことを積み重ねて年をとるのかもしれません。
豊平豪 2016年1月
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